北九州市立美術館へ三沢厚彦展を観に

クゥクゥが居ない時は自分の用事を済ませないと損のような気分です。

美術館に行くようになったのは

 

 

前にも少し記録したことがあるが、私が美術館へ行くようになったのは40歳を過ぎてからでかなり遅い。それまでは全く興味がなくお金を払って絵画や作品を観に行くという発想もなかった。旅先で見かける「〇〇博物館」とか「〇〇資料館」などには自分から入ることは一切なく、ツアーの予定に組み込まれている場合だけ仕方なく一緒について行くといった具合。入ってみるものの、サーっと風のように前を通り過ぎるように見るだけでとても「鑑賞」というレベルではない。何が楽しくて何に興味をそそられるのかさっぱりわからなかったのだ。

 

 

それでも、花の仕事をする上で芸術に「触れていなくてはならない気がして」美術館へ行くようになった。それが40歳を過ぎた頃。初めは「行かなくては」という気持ちで行っているから当然そこまで楽しさは感じられなかった。絵心なんて全くないし、芸術のことも歴史のこともわからない。でも、世の中でたくさんの人から支持されているものにはそれなりの理由があるはずで、わからないなりに見ていくとほんの少しずつでも感性が磨かれるのではないか、と期待をしていた。

 

 

そんな私もやっと美術館に出かけることが楽しくなってきた。相変わらず絵のことはわからない。ただ、直感的に好きか嫌いかで鑑賞しているのだがワクワクするようになったのだから不思議なものだ。

 

 

クゥクゥが居ないスキに

 

 

私はウエディングブーケを作る仕事をしているが、ヨガのインストラクターでもある。月に4回ほどレッスンの都合でクゥクゥを実感に預かってもらっていて、その時は私がひとり時間を満喫できる。美容院や歯医者の予約を入れたり、買い物に行ったり、今日のように美術館に行ったり。クゥクゥが一緒だとできないことや行けない場所に出かける予定をしっかり詰める。と言っても仕事の前やあとの2〜3時間のことだが、これだけでも開放感を味わえる。

 

 

 

 

決して一緒にいるのが嫌なわけではない。でも一緒にいるとそれなりの縛りはあるので行動は制限される。束の間自由に時間を使えるのは本当にありがたい。そんな話をすると「子供といっしょやね」と友人に言われたりする。

 

 

三沢厚彦ANIMALS

 

 

気になりながら今回もまた開催終了間近で慌てて行ってきた。昨夜からクゥクゥは実家に預けていたので朝一番で行こうと決めていたのだ。9:30開場に間に合うように行ったら平日だったこともあるのか1番乗りだった。前情報なしで行ったので彫刻家であることやCMで見ていた作品が丸太から切り出されたものだということに感心しながらワクワク感を味わうことができた。空間認知が低い私にとって、塊から何かを形作っていくなんて・・神業としか思えない。その感覚を木屑のかけらほどでもいいから分けていただきたい。

 

 

会場に入ってすぐに違和感。三沢氏のどの作品にもタイトルがないのだ。作品ごとの注釈もない。動物のオブジェはそれとわかるがそれ以外で何を表しているのかわからないものもあった。観る人が自由に発想できるようにということなのか、と素人なりに想像してみた。そして全ての作品が撮影OKなのも驚いた。

 

 

 

 

開場の要所要所には座って監視?している人がいる。これまでその人たちに声をかけたことなんてないが何せ会場には私ひとり。大抵の人は目が合わないように下を向いたり宙をみているのでその人たちの前は通り過ぎ、ひとりだけ話しかけられそうな女性がいたので声をかけてみた。作品のタイトルがないことと撮影OKなのは作者の意思なのかどうか。やはりそうらしい。「キャプションをつけないのはこだわりで、撮影の面では気にしないゆるい方」なんだそう。ほぉ。楽しい。そうやって作者のほんの一部でも知らないことを知れると鑑賞がさらに楽しくなった。その女性と共感できたことも楽しさを増してくれた気がする。

 

 

 

 

ちなみに調べてみたら「美術館に座っている人」は学芸員ではなく監視員だそう。そっか、ではあまり色々聞くのも気の毒なのかもしれない。一定時間で移動しながら監視しているようだが私にはあの仕事は・・絶対に無理だ。

 

 

作品越しの景色が爽快!

↓この子は

 

 

こんな子。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA